『火星からの侵入』

 今日はH・キャントリル(斎藤耕二・菊池章夫訳)『火星からの侵入』(1971年、川島書店)を読みました。

 題名だけ見るとSF小説に見えますが、実のところ心理学の本です。原題はThe invasion from Mars : a study in the psychology of panicとなっています。パニック行動に関する研究書です。といっても、難しい本ではありません。一般市民がパニックに陥ったある事件に関して心理学の観点から調査し、その結果を丁寧にまとめた本です。

 ある事件は1938年10月30日にアメリカで発生しました。ラジオ放送で流れたドラマ「宇宙戦争」を聞いた人々が、これを事実だと思い込んでしまったのです。ドラマの内容は火星人がアメリカに飛来し、地球侵略を開始するというものでした。効果音や演出によって臨場感たっぷりのドラマに仕上げられていました。

 ラジオを聞いていた人々は次々とパニックになっていきます。荷物をまとめて家から逃げ出したり、もう終わりだと諦めて静かに最後を待ったり、まさにパニックです。このような人々がなぜラジオドラマを信じてしまったのか、事後に調査がなされました。

 ドラマの視聴者は約600万人でした。そのうち、約170万人がドラマではなくニュースだと思ってしまい、約120万人が驚いて興奮してしまいました。ドラマの最初と最後には「これはドラマである」と明確に説明されていたにもかかわらずです。

 かくも多くの人々がなぜドラマを事実と受け止めてしまったのか。普通に考えてみて、最初に思い浮かぶ要因は教育水準でしょう。知的訓練を受けていないから騙されてしまったのだと誰もが言いそうになります。

 が、調査の結果、教育水準はそれほど関係がないことが明らかにされました。高校卒業の集団では36%がドラマをニュースと解釈した一方で、大学卒でも28%が同様の解釈をしています。学歴は直接に教育水準を現さず、年齢と経済状態を加味しなければなりませんが、それでも教育の程度が決定的要因ではありませんでした。

 調査結果によれば、中心となる要因は時代状況と個人状況でした。これは統計的な調査ではなく、主に面談による聞き取り調査から判明したことです。まず時代状況ですが、当時の1938年は第二次世界大戦が勃発する前年です。戦争の危機という緊張感のなかで火星人の侵入というドラマを耳にしたため、気持ちが先走ってパニックになってしまったということです。

 一方の個人状況ですが、これは各自が日常生活のなかで悩みを抱えていたために、冷静な判断ができなかったのです。日常的に欲求不満を感じており、社会の脅威に対して受け身に構えている人々は判断能力が低下していました。心理的に不安定であったため、ドラマで語られた内容にショックを受けてしまったのです。

 本書で展開されるパニック行動に関する研究は、非常に空恐ろしいと感じました。高度な教育を受けても、一定の状況のもとではドラマとニュースを判別することができないことが示されているからです。もっと端的に言えば、私たちを取り巻く状況次第で誰でもパニック行動をとってしまうということが明示されていると思いました。

 こうした研究成果は人間心理の解明にとって意義があります。と同時に、この到達点を踏まえて、人の心に作用することもできてしまうところに恐さを感じます。心理的に不安にさせて判断能力を喪失させることで、任意の事柄を人々に信じ込ませることもできます。大変だ大変だと喧伝されつづけると、誰しもが的確な判断ができなくなってしまうのです。

 ではどうしたら良いのか。本書ではやはり教育しかないだろうと言っています。教育水準がパニック行動に与える影響が大きくはないとはいえ、小さくもありません。先に示した数値では大卒のほうが高卒よりも3割くらい騙された比率が低いのです。この事実に本書は期待を寄せています。

 教育により十分な知識を身につけ、いろいろな角度から物事を考えられることが、事実とウソを区別する判断に必要となります。パニックに陥ることを予防するにも教育が有効であり、また、実際に危機的状況になったときに適切な行動をするためにも教育が重要となります。

 パニックへの対応策として教育を位置づけるところに、本書の示唆があると思いました。

自己紹介

benyamin ♂

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