『論文捏造』

 今日は松村秀『論文捏造』(2006年、中公新書ラクレ226)を読みました。

 論文捏造というと昨今ではES細胞に関する韓国人研究者が即座に惹起されますが、本書で扱っているのは超伝導に関する論文の捏造です。NHKがドキュメンタリー番組の題材にしましたが、BS放送で放映されましたので、多くの人々は知らない事件かもしれません。その便宜を図り、資料を補強しながら、番組を活字に直したものが本書になります。

 事件の舞台はベル研究所です。アメリカが誇る研究所であり、ノーベル賞学者を何人も排出している名門研究所です。事件の中心はドイツ出身の研究者、シェーン(ヤン・ヘンドリック・シェーン)です。2000年に物理学会に登場し、その研究は世界から注目されました。当時29歳でしたが、ノーベル書は確実だと太鼓判が押されるほどの業績を積み上げました。

 研究は超伝導に関するものです。超伝導とは物質に電気抵抗がなくなった状態です。この状態で電気を流すと、まったくの抵抗がなく流れます。超伝導を電線などに応用できれば、送電線の電気抵抗によって失われる電気がなくなります。送電による電気の喪失がなくなるのです。したがって、たとえば砂漠に発電所を作って生活圏に電気を送ることも可能になります。

 発電と送電に革命的変化をもたらす超伝導は、しかしながら、超低温でしか発生しないという難点があります。20世紀初頭に発見された当初は実験条件が絶対零度でした。超低温を送電線全体に実現することは費用的に不可能です。送電による電気損失よりも費用がかかります。これでは意味がありません。

 そこで有機物が注目されました。有機物とは炭素化合物です。この化合物を構成する物質の種類と比率によって、超伝導が発生する温度が変化するのです。つまり、超低温でなくとも超伝導の状態を作り出すことができます。研究者の間では極力常温に近い温度で超伝導が起こるような有機物を生成することが21世紀の課題になっています。

 シェーンが活躍したのはこのような超伝導と有機物の分野です。2000年以降、世界記録を大きく更新する研究成果を次々に発表しました。世界の研究者に大きな衝撃を与え、シェーンは尊敬の眼差しで見られることになりました。彼は科学の世界に大きな変革をもたらす先導者として位置づけられていました。

 研究成果をまとめた論文に捏造が発見され、シェーンがベル研究所を解雇されるのは2002年9月です。裏返せば、実に3年もの間、捏造に誰も気がつかなかったのです。いや、気がついたとしても誰も指摘できなかったのです。

 捏造だと疑う声はシェーンが最初に研究を発表した直後からなかったわけではありません。彼の研究を誰も再現できないのです。自然科学の分野では画期的な研究が発表されると、それを先行研究として取り込むためにも、実験で再現しようとします。が、世界で誰一人、シェーンの有機物を再現できませんでした。

 なぜこの段階でシェーンの業績に疑問を抱かなかったのでしょうか。それは捏造の立証が難しいからです。再現性かないことがすぐさま捏造の証拠にはなりません。また、無能だから再現できないだけではとの批判を振り切って、捏造だとの声を挙げることには相当の危険性が伴います。

 最終的に捏造を立証する決め手となった証拠は図表でした。まったく同じ図表が何本もの論文で使い回されていたのです。縦横の尺度を変えて微妙にグラフを変形させて別の図表のように見せかけていました。実験でデータを取らずに数値を捏造して、超低温でなくとも超伝導が発生した論拠としていました。まがうことなき捏造です。

 シェーンは捏造を認めていません。ベル研究所を解雇される時も自分の研究の真実性を主張しています。なぜ彼が論文捏造という大罪を犯してしまったのか。現在、シェーンは取材を受け付けていないので、誰にも彼の動機はわかりません。本書でも解明されていません。その代わり、本書が指摘している点は推察される背景的な要因です。

 研究の分野では、とりわけ、超伝導のような最先端の分野では競争が激化している上に、効率性の追求によって早期に成果を出すことが求められています。さらに、国家的な期待を背負わされているため、単なる成果ではなく、世界的に見て質の高い成果が要求されています。このような圧力にシェーンは耐えられなかったのではないか、と。

 決して他人事ではありません。研究の世界に漂う雰囲気はまさに本書が指摘する特徴があると思います。この文脈を重視するのであれば、シェーンの論文捏造は個人的資質の問題ではなく、学者世界の構造的な問題と言えるかもしれません。

 本書では科学雑誌や学会が監査機能を強化するべきだとの提言をしています。が、これは難しいと思います。どの分野であれ、学問は常に最先端でのことを対象にしています。言い換えれば、その研究者しかわからない世界を研究対象としています。そうしたなかで他の研究者が論文捏造に対してできる貢献は多くはないと思います。

 同様に、シェーンを雇い入れた研究者なども批判対象にしていますが、これもわかりやすい論敵を設定して批判しているだけではないかと思います。それよりも、先述した研究世界の雰囲気のほうが事件への影響力は大きいと思います。ただ、マスコミでは、これでは曖昧なので結論としては弱いと評価されるでしょう。

 本書の魅力は、シェーンの捏造論文に研究者が熱狂し、疑問を感じ、捏造を暴いていく過程を克明に描いている点です。推理小説のような物語展開がとても面白いです。その過程自体に、研究者への失望を感じる一方で、自浄作用が働くことへの期待も見え隠れしています。

 なお、私は1990年前後に起きた常温核融合事件を思い出しました。これは捏造とは言いがたいのですが、それでも斬新な研究を世界中が盲信しまいました。日本では政府が研究支援をするといったおめでたいバカさ加減を露呈しています。

 捏造は決して単体では存在できないと私は考えます。それが受け入れられるような相応の背景を必要とします。常温核融合では石油に依存したエネルギー体系からの転換が危急の課題とされていましたし、超伝導では研究の進捗が世界的に頭打ちになっていました。先が見えない閉塞感のなかで、人々は一筋の光を求めます。それが捏造である場合もあるということです。

【メモ】
最高血圧:106mmHg
最低血圧:58mmHg
脈拍数71bpm

所要時間 17:1600→1611→1643→1652

自己紹介

benyamin ♂

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