『素描・1960年代』

 今日は川上徹・大窪一志『素描・1960年代』(2007年、同時代社)を読みました。

 1960年代と言えば、左翼運動や学生運動が日本中に広がり、破壊活動に勤しんでいた時代です。その後、それらの運動への一般的嫌悪感を人々の間に醸成し、その悪印象が現在まで続いているという点では、日本の分岐点となった時代と言えるでしょう。

 本書の著者たちは1960年代に学生運動の担い手であった人々です。具体的には、共産党=民青系の学生運動を実際に展開していた人々です。さらに詳細に言えば、本書の中軸的な著者である川上徹は民青の幹部として活躍しながらも、1970年代初頭に分派活動を理由に除名された人です。

 学生運動のど真ん中にいた川上が、大窪一志を進行役として、自らの民青での体験を媒介に1960年代を描き出そうとする試みが本書です。民青とは共産党(日本共産党)の青年組織である日本民主青年同盟の略称です。これは戦後における共産党直系の学生組織です。

 1940年代末に民青を含む全日本学生自治会総連合(全学連)が結成され、学生運動は全国的に統一されます。これを主として共産党が指導していました。1950年以降は全学連を中軸に学生組織が分裂していきます。学生運動に対する共産党の指導のあり方や、共産党自体の方針のあり方を巡って、独自運動路線を展開しようとします。

 民青内部でも共産党への対抗勢力が形成されていきます。民青幹部であった川上は、1970年ごろから共産党の方針に不信を抱き始めます。発端は1970年に共産党が議会主義へと大きく転換したことでした。勢力拡大と学習が民青の基本的な活動となったのです。

 共産党の路線転換に疑問を感じた人は川上のほかにも民青内部にいました。彼らが1つの集団として形成されたのは1971年の夏です。当面の目標は民青への年齢制限導入を撤回させることでした。年齢制限によって大量の幹部の首を切り、共産党の新路線を民青に強要しようとしていることを見抜いたためです。

 共産党は年齢制限の導入を1972年6月の全国大会で決議することを目指していました。その準備となる会議を同年5月に開催し、そこに共産党の代表者を送り込んで決着を図ろうとします。川上たちは事前に根回しをして、この会議で他の参加者たちに共産党の方針へ質問や疑問をさせるように説得して回ります。

 通常は誰も何も発言せず、全員が意義なしで一致することが黙契の会議です。しかし、5月の準備会議では参加者達が次々と疑問や質問を発言しました。共産党の代表者は何度も立ち往生します。大成功です。結果、何も決められないまま会議は終了しました。川上たちの勝利です。

 しかしながら、彼らの活躍もそこまででした。準備会議の直後に催された慰安旅行の復路、彼らが乗ったバスはそのまま共産党本部へと直行し、1名ずつばらばらに拘束されます。そこで厳しい査問を受けて除名され、対抗勢力は徹底的に解体されました。1971年夏から1972年5月までのわずか10ヶ月の活動でした。

 本書が対象とする今回の事件は1970年代初めの出来事です。これは1960年代の延長線上で考えなければなりません。1960年代は学生運動の観点から見れば、全学連という統一組織に終結した人々が、各自が理想とする運動路線を見出し、実践していった時期だと思います。その動きが民青に波及したのです。

 ただ、本書の場合、共産党を否定するなかで展開していった1960年代の運動路線とは異なり、あくまで共産党の内部で対立していただけでした。好意的に解釈すれば、共産党に対して抱いた疑問、いや、彼らなりの悩みを理解してほしかっただけではないかと思います。

 真っ当な議論をしようとした彼らを、しかしながら、共産党は分派活動だとして排除しました。共産党組織を貫く原理である民主集中制では全体方針に対抗する勢力は無差別的に分派だとみなされるのです。著しく前近代的な組織ですが、良くも悪くもこれが共産党なのでしょう。

 1960年代に暴れまわった学生運動は共産党への対抗から生じた勢力でした。意地悪く言えば、共産党が彼らを包摂できる枠組みを提示できなかったために分裂してしまったのでしょう。勢力拡大を追及している一方で、従順ではない身内を分裂させ切り捨てています。当時の学生運動はそうした矛盾が原動力であったのでは、と本書を読んで感じました。

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benyamin ♂

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