「部落問題解決に向けた被差別部落民の当事者責任」

 今日は住田一郎「部落問題解決に向けた被差別部落民の当事者責任:全国水平社創立90周年を迎えて」『関西大学人権問題研究室紀要』(第67号、2014年3月)を読みました。

 本論考は、藤田敬一『同和はこわい考』(1987年、阿吽社)が提起した、部落差別問題に関する諸論点を解題しつつ、さらなる現代的な課題を指摘するものです。

 藤田が提起した諸論点とは、乱暴にまとめれば、被差別者である部落民と差別者とされる人々との間に対話や交流がないため、いつまでも被差別対差別という構図が解消されない、という問題です。表題にある「こわい」とは、なんだか知らないけど、あるいは、なんだか知らないから、部落民に恐れを抱き、距離を置いてしまっている状況を示しています。

 部落問題は部落民しか語ってはいけない、また、部落民の主張する内容は絶対であり反論は許されない、といった扱われ方をされてきました。お互いによる歩み寄り、とくに部落民からの歩み寄りがほぼ皆無であるため、差別解消を目指す議論や運動がむしろ逆に、部落問題に近寄りがたい空気をつくってしまい、差別構造を温存してしまっていると、藤田は指摘します。

 本論考において住田は、藤田の指摘を踏襲しつつ、さらに部落民の側における問題点を浮き彫りします。つまり、表題にある当事者責任について掘り下げ、対話や交流がない、あるいは、できていないことは部落民に対しても悪影響を与えているのではないか、と問題提起します。

 従来の議論や運動では、部落民は差別問題を差別する側の責任として批判あるいは攻撃することが基本でした。そうして主張すれば、たいていの人は口を紡ぎ、自らに責任があると認めてしまうので、戦略としては大成功しました。しかし、その一方で、問題のすべてを差別側の責任としてしまうことで、部落民側の問題が免罪されてきたのではないかと、住田は指摘します。

 相手が悪いと批判し攻撃することは楽で簡単ですが、そのなかで部落民の自助努力する気力は封じられ、自立する力量が育成されないまま放置されてしまったのではないか。これがさらに部落民を差別構造に縛り付ける結果になっているのではないか。いまこそ部落民の当事者責任が問われるべきではないか。住田はこのように迫ります。

 住田はこの当事者責任の問題が現代的課題であると主張します。日本では1970年代から2000年代まで30年以上にわたって実施された同和対策事業によって、部落における住環境、就労、教育などの格差問題は大きく解消に向かいました。被差別部落が置かれていた劣悪な状況が大きく改善された現代において、残された問題が当事者問題である、ということです。

 同じ日本人として同化するためには、部落民からの歩み寄りが必要となっている点が、部落を取り巻く現状と言えるでしょう。従来の議論や運動の方針を踏襲して部落差別の構図を守り続けるのではなく、和解と許しに基づく対話をすることが、これからの部落問題解消に向けた取り組みとして重要であると住田は提案します。

 本論考は非常に優れた内容であると思いました。部落差別問題は誰もが解消したいと願っているにもかかわらず、徒に対立が煽られてしまって解消が難しい問題の1つです。その原因と背景に迫る理論的な取り組みであると評価したいです。

 『同和はこわい考』を読んだ時もそうですが、実際の運動団体などからは敵扱いされて攻撃されそうですが、いや、現に攻撃されていますが、本論考の問題提起を真摯に受け止めてもらいたいと切に願います。

 本論考の意義は、さらに、批判したり攻撃したりするだけの議論や運動が陥ってしまう罠を鮮明に描いている点です。部落差別問題に限定されず、いわゆる弱者に関する問題については多く適用できるのではないでしょうか。批判や攻撃は簡単だし取っつきやすいから誰でも手を染めてしまいますが、それが当人の自尊心や自立心を奪ってしまう危険性がある、という構造は、まさに私自身の反省としても、正しく認識しておきたいと思います。

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benyamin ♂

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