読書の最近のブログ記事

『日本の不平等』

 今日は、大竹文雄『日本の不平等 格差社会の幻想と未来』(2005年、日本経済新聞社)を読みました。

 衝撃的な本でした。日本の格差問題について、基本的な実態がほぼ網羅されていると思います。本書において格差問題に関する議論は完結したと言っても良いくらいです。もちろん、格差への対応策についてはまだ検討すべきですが、その前提となる実態把握は本書で確定したと評価できます。

 本書は、乱暴に要約すれば、以下のような論点あるいは結論で構成されています。

  • 日本のマクロ的な所得格差は、高齢者層というミクロにおける所得格差が方向付けている。
  • 所得格差が拡大しているとの一般的な認識は、現状の格差ではなく将来に格差が拡大するとの予想に基づく。
  • 所得格差の主要な原因である賃金格差は、不景気下で就職した若年層において、雇用形態や就職先企業規模によって生じている。
  • 日本人は、たとえ生涯賃金が多くなろうとも、成果主義賃金ではなく年功賃金を好む。

 以上のような内容を、実証的に明らかにしています。

 このような本が2005年に発表されていたとは驚きです。ちまたの格差論議ではいったい何を議論していたのか、と強い疑念を感じざるをえません。

 同時に、そうした議論に引きずられていた私自身、不勉強さを恥じる次第です。いまさらながら。あらためて。

 今日は住田一郎「部落問題解決に向けた被差別部落民の当事者責任:全国水平社創立90周年を迎えて」『関西大学人権問題研究室紀要』(第67号、2014年3月)を読みました。

 本論考は、藤田敬一『同和はこわい考』(1987年、阿吽社)が提起した、部落差別問題に関する諸論点を解題しつつ、さらなる現代的な課題を指摘するものです。

 藤田が提起した諸論点とは、乱暴にまとめれば、被差別者である部落民と差別者とされる人々との間に対話や交流がないため、いつまでも被差別対差別という構図が解消されない、という問題です。表題にある「こわい」とは、なんだか知らないけど、あるいは、なんだか知らないから、部落民に恐れを抱き、距離を置いてしまっている状況を示しています。

 部落問題は部落民しか語ってはいけない、また、部落民の主張する内容は絶対であり反論は許されない、といった扱われ方をされてきました。お互いによる歩み寄り、とくに部落民からの歩み寄りがほぼ皆無であるため、差別解消を目指す議論や運動がむしろ逆に、部落問題に近寄りがたい空気をつくってしまい、差別構造を温存してしまっていると、藤田は指摘します。

 本論考において住田は、藤田の指摘を踏襲しつつ、さらに部落民の側における問題点を浮き彫りします。つまり、表題にある当事者責任について掘り下げ、対話や交流がない、あるいは、できていないことは部落民に対しても悪影響を与えているのではないか、と問題提起します。

 従来の議論や運動では、部落民は差別問題を差別する側の責任として批判あるいは攻撃することが基本でした。そうして主張すれば、たいていの人は口を紡ぎ、自らに責任があると認めてしまうので、戦略としては大成功しました。しかし、その一方で、問題のすべてを差別側の責任としてしまうことで、部落民側の問題が免罪されてきたのではないかと、住田は指摘します。

 相手が悪いと批判し攻撃することは楽で簡単ですが、そのなかで部落民の自助努力する気力は封じられ、自立する力量が育成されないまま放置されてしまったのではないか。これがさらに部落民を差別構造に縛り付ける結果になっているのではないか。いまこそ部落民の当事者責任が問われるべきではないか。住田はこのように迫ります。

 住田はこの当事者責任の問題が現代的課題であると主張します。日本では1970年代から2000年代まで30年以上にわたって実施された同和対策事業によって、部落における住環境、就労、教育などの格差問題は大きく解消に向かいました。被差別部落が置かれていた劣悪な状況が大きく改善された現代において、残された問題が当事者問題である、ということです。

 同じ日本人として同化するためには、部落民からの歩み寄りが必要となっている点が、部落を取り巻く現状と言えるでしょう。従来の議論や運動の方針を踏襲して部落差別の構図を守り続けるのではなく、和解と許しに基づく対話をすることが、これからの部落問題解消に向けた取り組みとして重要であると住田は提案します。

 本論考は非常に優れた内容であると思いました。部落差別問題は誰もが解消したいと願っているにもかかわらず、徒に対立が煽られてしまって解消が難しい問題の1つです。その原因と背景に迫る理論的な取り組みであると評価したいです。

 『同和はこわい考』を読んだ時もそうですが、実際の運動団体などからは敵扱いされて攻撃されそうですが、いや、現に攻撃されていますが、本論考の問題提起を真摯に受け止めてもらいたいと切に願います。

 本論考の意義は、さらに、批判したり攻撃したりするだけの議論や運動が陥ってしまう罠を鮮明に描いている点です。部落差別問題に限定されず、いわゆる弱者に関する問題については多く適用できるのではないでしょうか。批判や攻撃は簡単だし取っつきやすいから誰でも手を染めてしまいますが、それが当人の自尊心や自立心を奪ってしまう危険性がある、という構造は、まさに私自身の反省としても、正しく認識しておきたいと思います。

 今日は吉川敏一『なぜ、あの人はいくつになっても若いのか』(2009年、家の光協会)を読みました。

 著者は元阪神タイガースの金本知憲のトレーナーの一人であった人です。アンチエイジングの観点から金本の体づくりをサポートしていた経験も踏まえ、若い身体を維持する秘訣を教えてくれるのが本書です。

 と言いたいところですが、老いの原因が活性酸素であり、それによる酸化を防ぐためにビタミンを摂取しよう、適度な運動も大切だよ、という内容の本です。最近ではブログなどを読めば無料で得られそうな知識ばかりです。

 うーん。買って損しました。ネットを使えない人向けの本と言えそうです。阪神ファンとか^皿^

『英智スタイル48』

 今日は英智『英智スタイル48』(2013年、ベースボール・マガジン社)を読みました。

 みんな大好き中日ドラゴンズの元野手である英智が書いた本です。ヒーローインタビューで「僕のベースボールスタイルは48あります!」と答えたことに基づき、その48の内訳を示したものです。

 回りくどい言い方が多く、少し読みづらいところがありますが、それだけに一生懸命伝えようとする、英智の素直さがにじみ出ています。私のお気に入りは「9 福神漬けスタイル」です。一言で言うと理解しにくいでしょうが、福神漬けをつける余裕をもてるくらいにカレーを万全に準備するスタイです。詳しくは本書をお読みください。

 考え方が似ていると思ったのは「23 ただコーヒーを飲んでやり過ごすだけスタイル」と「44 変えられるものにのみエネルギーを注ぐスタイル」です。どうにもならないことはどうにもならないとあきらめてしまうスタイルです。適度にいい加減な私も身につけているスタイルです。

 本書の「おわりに」に、あのブログ事件の真相が書かれています。また、巻末には一軍に登録されていた2001年から2012年までの通算成績が掲載されています。ちょっとした資料としても活用できそうな本です。

『村崎百郎の本』

 今日はアスペクト編『村崎百郎の本』(2010年、アスペクト)を読みました。

 私も以前に書きましたが、2010年7月に熱狂的なファンによって自宅で殺害された村崎百郎について、彼の関係者たちが思い出を書き綴った本です。一言で言えば、彼の死を「鬼畜が鬼畜に殺された」と揶揄する言説に対して反論する、という問題意識の元でまとめられた本となっています。

 とはいえ、村崎百郎がただの鬼畜ではないことは、彼の文章を読んでいればわかることですし、彼の死を揶揄する声もそれほど大きくはなかったように思います。その点では、誰と戦っているのか、朦朧としており、死後5ヶ月もたたない時期に慌てて出版した本といったところです。

 ですので、本書の魅力は、関係者たちによる思い出話の間に掲載されている、村崎百郎の遺稿です。知性と感性に裏打ちされた、とても非道いエッセイや短編小説を読むことができます。なかでもおすすめは、「<汚物童子・村崎百郎の勝手に清掃局>隣の美女が出すゴミ」と「パープル・ナイト」です。いずれもゴミ漁りを題材とした、ハートウォーミングな小説です()。

 両作品ともが1990年代中頃に書かれたものです。私が好きだった『社会派くん』では、社会問題を不真面目に熱く語る姿が印象的でしたが、これらの作品では楽しそうにゴミを、そして、そのゴミを出す人間を語る姿を見ることができます。こういう村崎百郎をもっと見たい、読みたいと思いました。改めて、ご冥福をお祈りします。

『「反原発」の不都合な真実』

 藤沢数希『「反原発」の不都合な真実』(2012年、新潮新書)を読みました。

 もはや新興宗教の1つとなった反原発運動ですが、本書はその信仰対象となっている原子力発電についてリスクの観点から検討しています。

 原子力発電のリスクは、1TWhあたりの死亡者数で比較されます。研究者によって数値が異なるようですが、おおよその共通点として、原子力発電が0.03人であるのに対して、石炭や石油などの化石燃料発電が21人、水力発電が1.4人、太陽光発電が0.44人、風力発電が0.15人となっています。化石燃料では発掘時や精製時、発電時における死亡者数が顕著です。水力発電などの自然エネルギーでは建設時や設置時に死亡する事例が多くなっています。

 反原発運動に基づき、原子力発電から他の発電へと転換する場合、たとえば化石燃料発電なら死亡者数が700倍、水力発電は46.7倍、太陽光発電は14.7倍、風力発電は5倍となることを考慮に入れる必要があります。現在は原子力発電所が稼働停止している分を火力発電で補っていますが、より多くの死亡者を生む発電手段へと転換していることになります。安全を求める反原発運動が逆に安全を損なう結果につながってしまうとは皮肉なことです。

 火力発電の比重が高まっている日本では、リスクとともに費用も大きな問題となっています。日本は化石燃料を年間20兆円輸入していますが、その4割が発電に使われています。発電全体に占める火力発電の割合は6割ですので、おおよそ4.8兆円が火力発電に投入されています。原子力発電の割合は震災前では3割でしたので、これをすべて火力発電でまかなうとすると、2.4兆円の追加費用が発生します。震災による被害者に対する賠償額は今のところ累計で5兆円程度ですので、その半分に匹敵する金額となります。

 反原発運動が期待する太陽光発電や風力発電は発電全体の1%にも満たない状態です。これを原子力発電が担っていた3割に置き換えていくことは簡単ではありません。たとえば、太陽光発電は現状では非常に非効率的な発電方式です。川崎市にある浮島太陽光発電所は敷地面積が11ヘクタールと巨大な施設であり、出力は7000kW、年間で740万kWhの電気を供給する能力があります。一方、原子力発電所の出力は60〜130万Kwです。つまり、原子力発電なら1日もかからずに発電できる電気を、広大な土地を使い、かつ、1年という長い時間をかけて発電することになります。

 本書で検討されるこうした内容は日本のエネルギー政策を議論する上で必須であると思います。本書の意図とは少し外れるかもしれませんが、原子力発電よりも火力発電のリスクが印象に残りました。発電方法の転換、あるいは、再編成を模索するのであれば、まずは火力発電への偏重を低下させることが必要となるように思います。

 感情論が強すぎる現在の論壇状況のなかで、事実と統計に基づく議論を転換する本書の意義は大きいと言えます。もっとも、反原発運動に邁進する人々が本書のような主張に耳を傾けることはないでしょうが。メロリンQさんとか読んでくれなさそうですね。

『誰か Somebody』

 今日は宮部みゆき『誰か Somebody』(2007年、文春文庫)を読みました。

 とある巨大企業の会長の個人運転手をしていた人が、自転車衝突事故で亡くなった場面から始まる小説です。自転車に乗っていた犯人がわかっておらず、その謎を会長の娘婿である主人公が調べるうちに、亡くなった被害者の過去が明らかになっていきます。

 次々と新たな謎が出現しますので、読み出したら止まらないくらい引きずり込まれます。私は電車のなかで読むことで、この時間泥棒に対抗しました。それくらい面白かったです。

 ただ、私はこの本を、金融の怖さがわかる本、として紹介されたので、最後までそのつもりで読んでしまい、純粋に楽しむことができなかったかもしれません。この本は金融の本ではありません。それでも面白かったですが。

『新幹線お掃除の天使たち』

 今日は遠藤功『新幹線お掃除の天使たち』(2012年、あさ出版)を読みました。

 お掃除の天使たちとは、鉄道整備株式会社(通称テッセイ)に勤める、新幹線の車内を掃除する人たちです。東京駅などで切り返す新幹線の車内を掃除します。切り返しの時間は12分ですが、乗車に2分、降車に3分かかるので、実質7分で掃除をします。

 7分の間に、トイレ掃除からゴミの回収、座席の掃除までを完璧にこなします。見事なチームワークと、仕事の仕上げの綺麗さから、日本内外で評判になっているようです。

 掃除だけでなく、新幹線の到着を一列になって待つ姿や、迷った乗客への対応なども優れています。こうした点も注目される理由になっています。

 本書はこうしたテッセイを取り上げています。お互いに褒め合い励まし合いながらチームワークを作り上げる取り組みや、掃除というあまりやる気の出ない仕事に誇りを持たせる仕組みなどを、紹介しています。

 私はこうした仕事があるとは知りませんでした。いや、正確に言えば、こうした仕事はあることは知っていましたが、実際に掃除をしている姿を見たことがありませんでした。気に留めていなかったためでしょうか。

 今度、東京駅に行く機会があれば、是非とも拝見したいと思います。

『知の欺瞞』

 今日はアラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン『知の欺瞞』(2012年、岩波現代文庫)を読みました。

 本書では、いわゆる現代思想の担い手たちが小難しい概念を知ったかぶりで振り回している姿が暴露されます。具体的には、数学者である著者の2人が、いろいろな現代思想家たちが論文で数学の概念を理解せずに用いていることが明らかにされています。

 たとえば、精神分析学者であるジャック・ラカンは精神分析に関する論文で以下のように書いています。

 この享楽の空間では、何らかの有界なもの、閉じたものを取り上げること、それは一つの場所=軌跡であり、その場所=軌跡について語ること、それは一つのトポロジーなのだ。

 うっかりすると、な、なるほど!と受け取ってしまいそうになります。しかし、トポロジー(位相幾何学)という数学の概念を用いていますが、それと精神分析との関係性は示されることなく論文は終わってしまいます。トポロジーという概念を論文に登場させただけです。おそらくは権威付けのためだけに。

 本書では、ラカン以外にも、記号学者のジュリア・クリステヴァ、精神分析家のリュス・イリガライ、社会学者のジャン・ボードリヤール、思想家のジル・ドゥルーズ、精神分析家のフェリックス・ガダリ、建築家のポール・ヴィリリオ、といった有名どころが取り上げられています。いずれも数学の概念を自らの論に持ち込みながら、何も説明していない、として一刀両断されています。

 それぞれ著名な論者たちであることもあり、彼らの支持者からは相当に反論されているようです。もっとも、そうした反論では、彼らが数学の概念を正確に理解していることが示されいるわけではないようです。数学の概念を理解していないこともあるかもしれないが、たとえそうだとしても主張の本質は間違っていない、という内容が基本のようです。

 私もそうした反論には賛成します。が、その一方で、やはり彼らが理解していない数学の概念を偉そうに論じていることは事実として受け止めるべきだと思います。彼らの著書を読んでもわからないことがありますが、それは私の理解力の問題だと感じていましたが、そうではなく彼ら自身もわかっていないことを書いているかもしれません。

 自分の主張が緻密な論理性を有していると見せるために、厳密な論理性を有する数学から概念を借用したのでしょう。しかし、それでも、論理性がない主張が論理的になるわけではありません。まずは自分の主張に論理性を持たせる作業が必要です。他山の石として私自身も気をつけたいと思います。

『日本の雇用終了』

 今日は労働政策研究・研修機構編『日本の雇用終了』(2012年、労働政策研究・研修機構)を読みました。

 本書は、題名だけを見ると、日本の雇用はもうおしまいですっ!という内容に思われますが、実際は、日本の職場で労働者がどのように解雇されるのかについて、個別労働紛争の事例を調査したものです。つまり、裁判に持ち込まれずに、労働局による斡旋が行われた事例を丁寧に調査しています。

 本書で取り上げる事例において、労働者が解雇される理由は、ほとんどが労働者の態度となっています。職場で上司の指示に従わなかったり、同僚と上手く意思疎通ができなかったり、遅刻や無断欠席を繰り返したり、そうした態度によって解雇されています。労働者の能力や仕事との適性ではなく、態度が主要な解雇理由です。

 もちろん、こうした態度による解雇は労働法では厳しく規制されています。裁判所に持ち込まれれば確実に企業側が負けるでしょう。しかし、労働局の斡旋が行われるような中小企業や零細企業では労働組合が組織されていないこともあり、裁判に持ち込まれることはありません。つまり、日本の職場では労働法を超えて、態度を理由に解雇するというような規則的なものが通用しています。

 日本では労働法による規制のため、本来であれば解雇になることはないと言われています。学問的にもそのように論じられています。そうした認識は裁判に持ち込まれた判例に基づいたものです。しかし、実際の職場ではもっと解雇事例は発生しています。この実情に本書は迫っていると思います。

 しかも、その理由は労働者の態度です。能力や適正ではなく、職場の人間関係に適合するかどうかが重要なのです。ここに日本社会の特殊性が示されていると思います。労働者が企業の価値を高めていくことよりも、職場で一緒に仲良く働いていくことが重視されています。

 態度に重点を置いた労働者の評価が良いかどうかは議論されるべきですが、その一方で、これが日本の職場における現実であると受け止める必要もあると思います。企業が求める人材にとって必須の能力はコミュニケーション能力となっていますが、これも職場でのこうした現状を踏まえてのことでしょう。コミュニケーション能力がない労働者は日本ではいらないのです。

 また、解雇の理由となる態度にも、一般的に許容されるべきものもあります。遅刻や無断欠席はもちろん、職場の人や顧客の悪口を言いふらす、職場の備品を盗む、といった事例も多くあります。労働者として、というか、人として基本的なことができない労働者はクビにするべきでしょう。こうした人たちまで労働法で守る必要はありません。

 本書は日本における解雇事例の実態を明らかにしており、非常に意義のある内容であると思います。いままさに現場にいる労働者も読むべきですが、これから労働の現場に出て行く高校生や大学生こそ読むべきだと思います。もちろん、それは態度で解雇が決まることの善し悪しを議論するためではなく、こうした現実を前にしてどのように準備をするかを考えてもらうためです。就職活動の時期になってからでは遅いのです。

 とはいえ、本書は360ページくらいあり、高校生や大学生が気軽に読むことが難しいです。簡易的な要約版が出版されないかと願っています。

自己紹介

benyamin ♂

2016年12月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

月別アーカイブ

Powered by Movable Type 5.13-ja
Support Wikipedia